「うちは固定残業代を払っているから残業代の問題はない」——そう考えていた会社が、退職した元従業員から多額の未払い残業代を請求される。これは決して珍しいケースではありません。
固定残業代(定額残業代)制度は、適法に設計・運用されていれば、会社にとって有効な賃金管理の手段であり、従業員にとっても収入が安定する点でメリットのある仕組みです。しかし、有効要件を満たしていない場合、固定残業代として支払ってきた金額が「残業代として認められない」と判断され、改めて残業代全額の支払いを求められるリスクがあります。
本コラムでは、固定残業代の有効要件を最高裁判例に基づいて整理したうえで、会社側が陥りやすい失敗パターンと実務上の設計・運用のポイントを解説します。
1.固定残業代とは——制度の基本的な考え方
固定残業代とは、一定時間分の時間外労働・休日労働・深夜労働に対する割増賃金をあらかじめ固定額で支払う制度です。「みなし残業代」や「定額残業代」と呼ばれることもあります。
最高裁判所は、基本給や諸手当にあらかじめ割増賃金を含めて支払う方法自体は違法ではないと明示しています(医療法人社団康心会事件・最判平成29年7月7日)。したがって、固定残業代制度そのものは適法です。問題は、その設計と運用が有効要件を満たしているかどうかです。
2.固定残業代の2つの有効要件
判例上、固定残業代が労働基準法第37条に定める割増賃金の支払いとして認められるためには、以下の2つの要件を満たす必要があります。
要件① 判別可能性——通常賃金と割増賃金が区別できること
通常の労働時間の賃金に当たる部分と、割増賃金に当たる部分とが、明確に判別できることが必要です(医療法人社団康心会事件・最判平成29年7月7日)。
これが問題になりやすいのは、賃金を「基本給に組み込む形(組込型)」で設定している場合です。たとえば「月給25万円(残業代込み)」という設計では、25万円のうちどこまでが通常賃金でどこからが残業代なのかが不明確であり、判別可能性を欠くとして固定残業代が無効とされるリスクがあります。
また、「営業手当」「職務手当」といった名称の手当に通常賃金と残業代の両方が混在している場合も同様の問題が生じます。手当の中に通常の賃金部分が含まれているときは、それぞれの金額を明確に分離して定める必要があります。
実務上、クライアントの企業から未払い残業代請求を受けたとしてご相談に来られる事案において最も多いのが、この判別可能性の問題です。従業員には「残業代込みの給与だと説明していた」と固定残業代が含まれていることは合意していたことを主張するものの、求人票・雇用契約書・就業規則のいずれにも明確な記載がないケースが目立ちます。
要件② 対価性——当該手当が割増賃金の対価として支払われること
固定残業代として支払われる手当が、実際に時間外労働・休日労働・深夜労働に対する対価として支払われるものであることが必要です(日本ケミカル事件・最判平成30年7月19日)。
この要件を満たすかどうかは、契約書等の記載内容、使用者の説明の内容、労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情から、実際の時間外労働の状況とかい離していないか、といった点から判断します。
対価性が否定された典型例として、国際自動車事件(最判令和2年3月30日)があります。タクシー会社が歩合給の計算において売上高から「割増金」相当額を控除する仕組みを採用していたケースで、最高裁は「時間外労働が増えるほど歩合給が減少し、結果的に総支給額がほとんど変わらない」という設計は割増賃金のコストを実質的に労働者に負担させるものとして無効と判断しました。
実質的な観点から、時間外労働に対する対価として評価できない仕組みとなっていないかを検討する必要があります。
3.会社が陥りやすい3つの失敗パターン
① 雇用契約書・就業規則には記載があるが、給与明細に反映されていない
固定残業代を適法に設計するときは、雇用契約書・就業規則・給与明細の3点が整合していることが必要だと考えるべきです。この中で最も見落とされがちなのが給与明細です。
雇用契約書に「基本給〇〇円、時間外手当〇〇円(〇時間分)」と明記していても、毎月交付する給与明細に「基本給〇〇円」としか記載がない場合、従業員が「残業代は別途もらえると思っていた」と主張する根拠を与えてしまいます。給与明細上でも固定残業代の金額と対応時間数を明示することは、将来の紛争を回避する観点からも必須と考えられます。
② 固定残業時間数の設定が実態と乖離している
固定残業代が有効であっても、実際の時間外労働が固定残業時間数を超えた場合は、超過分の残業代を別途支払う義務があります(差額支払義務)。このような運用をする必要があることを認識していない会社が、少なくありません。
固定残業時間数の設定にあたっては、法的には45時間以内に収めることが必要です(時間外労働の上限規制・労働基準法第36条第3項)。45時間を超える固定残業時間数を設定した場合、その設定自体が労基法違反となるリスクがあります。また、実務的には各従業員の平均的な残業時間をベースに、それに一定の余裕を加えた時間数に設定することが合理的です。設定時間数が実態と大きく乖離していると、恒常的に差額が発生し、未払い残業代の積み上がりにつながります。
なお、固定残業時間数が80時間以上に設定されている場合は、その設定自体が問題視されます。東京高裁平成30年10月4日判決(イクヌーザ事件)は、1か月80時間程度の時間外労働を恒常的に予定した固定残業代について、労働者の健康を損なう危険があるとして無効と判断しました。
③ 求人票・採用時の説明と雇用契約書の内容が一致していない
求人票に「月給〇〇万円(残業代込み)」と記載しながら、雇用契約書では固定残業代の金額・時間数を明記していないケースがあります。採用時の説明が不十分であると、「固定残業代の合意があったか」自体を争われるリスクがあります。
求人票・採用説明・雇用契約書のすべてで固定残業代の金額・対応時間数・超過時の差額支払いについて一貫した記載をしておくことが重要です。
4.未払い残業代を請求された場合——会社側の対応
退職した元従業員から未払い残業代を請求される場面では、まず内容証明郵便による請求が届き、その後、労働審判または訴訟に発展するケースが多くあります。
請求を受けた段階で会社側が確認すべきことは以下の通りです。
- 固定残業代の有効性の確認:雇用契約書・就業規則・給与明細の記載内容を精査し、判別可能性・対価性の要件を満たしているかを確認する。
- 実際の労働時間の把握:タイムカード・PCログ・入退館記録等を収集し、請求期間中の実際の労働時間を確認する。未払い残業代の時効は3年(労働基準法第115条・令和2年改正後)であるため、直近3年分が対象となる。
- 差額計算の精査:固定残業時間数を超えた部分について、会社として計算し直す。請求額と会社側の計算が大きくかい離している場合はその根拠を確認する。
- 付加金リスクの確認:悪意または重大な過失による割増賃金の不払いがあった場合、裁判所は未払い額と同額の付加金の支払いを命じることができる(労働基準法第114条)。付加金が認められると実質的に2倍の支払いとなる。
未払い残業代請求は、交渉段階での早期解決が会社側にとって有利な場合が多くあります。請求を受けた時点で速やかに弁護士に相談することで、自社の法的リスクを正確に評価したうえで対応方針を立てることができます。
5.固定残業代を適法に設計・運用するためのチェックリスト
固定残業代制度を導入・見直す際には、以下の点を確認してください。
- 求人票 固定残業代の金額と対応時間数が明記されているか。
- 雇用契約書 基本給と固定残業代の金額・対応時間数が明確に分離して記載されているか
- 就業規則(賃金規程) 固定残業代の定義・金額・対応時間数・超過時の差額支払いルールが記載されているか。
- 給与明細 固定残業代の金額が独立した項目として記載されているか。
- 固定残業時間数 45時間以内に設定されているか。
- 実際の残業時間 固定時間数を超えた月に差額を支払っているか。
- 固定残業時間数の設定 従業員の実態の残業時間と著しく乖離していないか。
これらのうち一つでも問題がある場合は、早急に見直しを行うことをお勧めします。問題が発覚するのは退職した元従業員から請求を受けたときがほとんどですが、その時点では過去3年分の未払いが積み上がっています。予防的な見直しのコストは、事後的な対応コストと比較して格段に低くなります。
まとめ
- 固定残業代制度自体は適法だが、有効要件(判別可能性・対価性)を満たさなければ残業代として認められず、改めて全額請求を受けるリスクがあることの認識が必要。簿外債務と一緒です。
- 最も多い失敗は判別可能性の欠如——「残業代込みの給与」という設計で雇用契約書・求人票・給与明細のいずれにも明確な記載がないケース。
- 給与明細への固定残業代の明示が最も見落とされやすい。雇用契約書・就業規則・給与明細の3点セットの整合が必要で、給与明細の記載は昇給の際などに間違いかねない。
- 固定残業時間数は45時間以内に設定し、実態の残業時間に基づいて合理的に設定する。超過分の差額支払いを徹底する(経理部門の認識が必須。)。
- 未払い残業代請求は退職後に発覚するケースが大半。時効は3年であり、早期の制度見直しが最大のリスク管理。
当事務所では、固定残業代制度の適法性の確認・設計の見直しから、実際に未払い残業代を請求された場合の交渉・労働審判対応まで、使用者側の立場で一貫してサポートしています。「うちの固定残業代の設計は大丈夫か」という段階でのご相談も承っています。
名ばかり管理職・管理監督者への残業代適用については「名ばかり管理職と管理監督者の違い——残業代が発生するケースを弁護士が解説」をあわせてご参照ください。労働審判を申し立てられた場合の対応については「労働審判を申し立てられた会社側の対応」をご参照ください。
2006年弁護士登録以来、企業法務、事業再生・債務整理、税務関係、交通事故、消費者事件、知的財産権関係、家事事件(相続・離婚その他)、
その他一般民事、刑事事件、少年事件に取り組む。講演実績は多数あり、地域経済を安定させる、地域社会をより良くしていくことに繋がる。
こう確信して、一つ一つの案件に取り組んでいます。
※日本全国からのご相談に対応しております。






