残業代トラブルの多くは、労働時間の考え方に対する会社側と従業員側の認識のズレから生じます。特に「事前申告のないものは労働時間ではない」という誤解は根強く、未払残業代請求の火種になりやすいところです。本稿では、使用者側弁護士の立場から、労働時間の適正把握と残業命令をめぐる実務上の注意点を解説します。
1.労働時間・残業をめぐる相談で実際に多い場面
相談として最も多いのは、やはり未払残業代をめぐるものです(すでに請求を受けてしまった場合の初動対応については、「未払い残業代を請求された会社側の対応」もご参照ください)。あわせて、36協定の上限を超える残業が発生していないかという点も重要な関心事であり、特に上場企業では、月次で残業時間をチェックする体制を整えているケースが一般的になっています。中小企業でも、この水準の管理体制を意識しておくことが望ましいといえます。
2.「労働時間」とは何か——事前申告がなければ労働時間ではない、という誤解
実務でよく見られる誤解が、「事前に申告・承認を得ていない時間は労働時間に当たらない」というものです。しかし、最高裁判所第一小法廷平成12年3月9日判決(三菱重工業長崎造船所事件)は、労働基準法上の労働時間とは労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をいい、労働者の行為が指揮命令下に置かれたと評価できるか否かによって客観的に定まると判示しています。就業を命じられた業務を行うことを使用者から義務付けられ、又は余儀なくされていた場合には、特段の事情がない限り指揮命令下に置かれていたと評価されるとされており、事前申告の有無という形式的な手続きの存否だけで労働時間性が否定されるわけではありません。
したがって、決められた時間内に業務が終わらず、その分の業務を余儀なくされていたと評価できる実態があれば、事前申告がなくても労働時間として扱われ、割増賃金の支払義務が生じ得ます。決められた時間で仕事が終わらない場合、その原因が本人の能力や進め方だけでなく、業務量の設定や指示の出し方といった上司側のマネジメントにある場面は少なくなく、「事前申告がないから労働時間ではない」という発想は、法的にも労務管理上も危険な誤解であることを、まず押さえておく必要があります。
3.自己申告制の運用と、乖離が生じたときの補正義務
自己申告制で労働時間を管理する場合、厚生労働省の「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(平成29年1月20日策定)が実務上の指針になります。同ガイドラインは、①自己申告を行う労働者だけでなく、労働時間を管理する立場の者にも適正な運用について十分な説明を行うこと、②自己申告により把握した時間と、入退場記録やパソコンの使用時間等から把握できる在社時間との間に著しい乖離がある場合には実態調査を行い、必要な労働時間の補正をすること、③労働者が自己申告できる時間数に上限を設けるなど、適正な申告を阻害する措置を設けてはならないことを求めています。
打刻後に業務を続けていた、打刻を忘れていた、定時後に雑談をしてからタイムカードを押していた、といった打刻と実際の勤務実態のズレは、実務上非常によくある場面です。会社側からすれば「だらだら残っているだけではないか」という不満が生じやすいところですが、法的には、打刻時刻と実際の労働時間とが一致しているかどうかを客観的に検証する仕組みを持たない限り、打刻記録だけで労働時間を認定・否認することはできません。PCログ等の客観的な記録と自己申告との間に乖離がある場合には、それを放置せず実態を確認し、必要に応じて補正するプロセスを社内に組み込んでおくことが、未払残業代リスクを抑える最も現実的な対策になります。
4.残業命令は「お願い」ではなく業務命令
残業命令をめぐる紛争では、そもそも残業命令が法的にどのような性質を持つのかという理解が曖昧なまま現場が運用されていることが少なくありません。最高裁判所第一小法廷平成3年11月28日判決(日立製作所武蔵工場事件)は、就業規則に36協定の範囲内で時間外労働を命じることができる旨が定められ、その内容が合理的なものである限り、労働者は36協定の効力発生とともに時間外労働義務を負うとし、これに応じなかったことを理由とする懲戒処分を有効と判断しました。就業規則と36協定が適法に整備されている限り、残業命令は使用者の業務命令権の行使であり、労働者が自由に拒否できるものではありません。
実務上、上司が業務上の必要性を判断して残業を命じているにもかかわらず、その判断が「お願い」のように軽く扱われてしまい、結果として指示違反かどうかが曖昧なまま紛争化するケースが見られます。この背景には、上司自身が自分に業務命令権があるという自覚を十分に持たないまま指示を出していることが多い、という実務上の課題があります。残業が必要かどうかの判断は、本来、業務上の必要性を踏まえた使用者側の権限行使であることを、管理職研修等を通じて上司の側にも明確に意識させておくことが、指示違反の該当性をめぐる紛争を防ぐ実務上のポイントになります。
5.36協定の上限規制と、中小企業が陥りやすい落とし穴
2019年の働き方改革関連法により、36協定の上限規制には罰則が設けられています。原則は月45時間・年360時間ですが、臨時的な特別の事情がある場合に限り特別条項により延長が可能です。ただしその場合でも、時間外労働は年720時間以内、時間外労働と休日労働の合計が複数月(2〜6か月の全ての期間)平均で80時間以内、単月では時間外労働と休日労働の合計が100時間未満という上限を超えることはできず、これらに違反すれば罰則の対象になります。
中小企業で特に陥りやすいのが、慢性的な長時間労働の背景に顧客都合があるケースです。納期や対応時間を顧客側の都合で決められてしまい、自社の36協定上の上限を意識する余地がないまま業務が進んでしまう構造は珍しくありません。上限規制は自社の管理の問題であって、顧客都合を理由に免除されるものではないため、繁忙期の業務配分や人員体制を、顧客都合に振り回される前提で見直しておく必要があります。上場企業のように月次で残業時間をモニタリングする体制がなくても、少なくとも複数月平均80時間・単月100時間未満のラインに近づいている従業員を早期に把握できる仕組みを、規模に応じて整えておくことが望ましいといえます。
6.事前申告ルールの徹底と、行き過ぎた運用のリスク
事前申告制を機能させるためには、ルールを破って事後的に申告してきた場合に、一定程度厳しく対応し、事前申告を徹底させる意識づけを行うこと自体は、労務管理上意味のある運用です。もっとも、この運用が行き過ぎると、従業員が実際に働いた時間を正直に申告しづらくなり、結果として過少申告を助長してしまう危険があります。前記のガイドラインが、自己申告できる時間数に上限を設けるなど適正な申告を阻害する措置を禁じているのは、まさにこの点を問題視しているためです。
実務上重要なのは、「事前に相談・承認を得るという手続を徹底させること」と、「実際に働いた時間の申告そのものを咎めること」を区別することです。前者を徹底する趣旨での指導は業務プロセスの適正化として許容されますが、後者に踏み込んでしまうと、自己申告制度そのものの適正性が損なわれ、かえって未払残業代リスクを高めることになります。ルール違反への厳しい対応と、正直な自己申告を促す仕組みとを、両立させる運用設計が求められます。
7.まとめ
労働時間は指揮命令下に置かれていたかどうかで客観的に決まり、事前申告の有無だけで労働時間性が否定されるものではありません。自己申告制を運用する以上、客観的記録との乖離を放置せず補正する仕組みが不可欠であり、残業命令は使用者の業務命令権の行使であることを管理職に自覚させることも重要です。36協定の上限規制は顧客都合によって免除されるものではなく、事前申告ルールの徹底も、正直な申告を阻害しない範囲で運用する必要があります。
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2006年、福岡県弁護士会に弁護士登録。
企業法務(使用者側での労務問題、契約書チェック、コンプライアンス体制の整備)、交通事故での損害賠償請求、相続、離婚などの家事事件、企業の事業再生・債務整理その他一般民事、刑事事件等に取り組む。
企業内の研修やセミナー開催の実績多数。
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